二宮尊徳の墓
 二宮尊徳(1787〜1856)は江戸時代末期の農政家・思想家であり、相模国足柄下郡栢山村(現神奈川県小田原市)の農家に生まれ、通称を金次郎、尊徳と称した。
 尊徳は、勤倹力行して藩家老家再興をした手腕を買われ、文政4年(1821)に小田原藩主大久保忠真の命を受け、下野国桜町領の荒村復興を実施することになり、その後半生を下野で過ごすこととなった。
 桜町領を復興させたことにより、各地で教えを乞われ指導し著しい効果を挙げ、現在でも水路等の成果が各地にのこっている。
 これらの実績により幕府に日光神領89ヶ村の復興を命ぜられ復興開発方法書を書き、嘉永6年(1853)には今市に報徳役所を設置して日光神領復興に全精力を注いだ。
 しかし、安政3年(1856)に事業半ばで報徳役所において70才で死去した。
 今市の如来寺で葬儀が行われ、現在の知に埋葬された。(以上、周知板より引用)