新選組隊士 斉藤一(藤田五郎)の墓 斉藤一は、1844年(弘文元年)御家人の父、山口祐助・母マスとの間に生まれた。初名を山口一、のち斉藤一に改めた。 1863年(文久三年)壬生浪士組のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦。その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時伊東に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新選組に復帰し山口二郎と改名。 鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。しかし西軍が城下に迫った時、「会津候(松平容保)あっての新選組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れた。 会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉。明治三年斗南へ移る際藤田五郎と改名。その後上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士喬木小十郎の娘時尾と結婚。警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍。その後東京教育博物館等へ奉職し、1915年(大正四年)七二歳で逝去。後半生を会津人として生きた本人の希望によりここ阿弥陀寺に眠っている。(以上、周知板より引用) |