近藤勇藤原昌宣之墓 天保五年十月九日武州調布町上石原(東京都調布市)の郷士宮川久次郎の三男として生る。幼名を勝太と謂う、自宅に道場を構え十五才にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。 師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太十七歳の時養嗣子として迎える。元服して名を勇と改め剣理を究め後試衛館を継ぐ。塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。その後京に上り新撰組の母体となった。新撰組の活躍は文久三年から慶応三年に至る五年間である。中でも最も著名なものは新撰組最盛期の池田屋騒動である。長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新撰組の察知する所となり、出動後世に残る大惨事となった。 新撰組はその後伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火気の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成。勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に集結していた。勇は大久保大和と称していたが元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世二詩を遺して斬首の刑に処せられた。 会津守護職の直属であった新撰組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている(以上、周知板より引用) |