蒲生氏郷の墓
天正18年(1590)、天下統一を果した秀吉は信長にも仕えた戦国武将の蒲生氏郷を奥羽の押えとして会津に封じた。氏郷は黒川といったこの町を郷里(滋賀県日野町)の森の名にちなみ「若松」と名づけた。また鶴ヶ城や城下町を整備し、漆器産業を植えつけ文化興隆にも力を注いだ。しかし会津の領主となって僅か5年後に文武両道に秀でた氏郷も病のため京都で不帰の人となった。興徳寺の五輪塔には遺髪が収められ、辞世の歌碑も建っている。(以上、周知板より引用)