如意の渡
 室町時代の軍記物語「義経記」の中に「如意の渡」にて、”義経を弁慶打奉るの事”という挿話がありますが、この「如意の渡」はかつてこのあたりにあったと伝えられています。
 文治三年(1187)奥州へ落ちる義経一行が如意の渡から船で六渡寺へすすもうとしましたが、渡守の平権守が義経をさして判官殿(義経のこと)ではないか、と怪しみました。
 もし、義経であることが見破られ頼朝に通報されたら一大事と考えた弁慶は”あれは加賀白山よりつれてきた御坊で判官殿とおもわれるのは心外だ”と言ってとっさに疑念をはらすため、扇で義経をさんざん打ちのめしました。このようなやり取りがあった、一行はめでたく如意の渡を渡りました。
 この話は、扇が金剛杖になったり場所も安宅の関になるなど、だんだん変えられて、のちに謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」が創作されました。(以上、周知板より引用)