佐々宗淳の墓
 水戸黄門漫遊記で親しまれている「助さん」は本名は佐々宗淳といい、字を子朴、通称を介三郎、十竹と号した。本姓は良峰氏であったが、その祖が佐々成政の妹を妻とした縁で佐々氏を名乗った。十五歳で京都妙心寺の僧となり、祖淳と号した。僧として約20年つとめたが、感ずるところあって還俗、江戸に出て延宝2年(1674)徳川光圀に仕え、進物番兼史館勤務となり、義公修史のことに従事した。彼の業績は史科の採訪収集でその史跡は畿内は勿論、北陸・中国・九州などまでも及び貴重な文書記録を集めたことである。また義公の命で下野の那須国造碑の修復、同所の上下侍塚の発掘調査とその復原等に当ったことは特筆されよう。元禄9年(1696)彰考館総裁をやめ、小姓頭として西山荘の光圀に仕えたが、元禄11年6月3日59歳で没し、この地に葬られた。墓碑は養子の藤蔵宗立が建て、選文は格さんこと安積覚澹泊である。(以上、周知板より引用)