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2万平方メートルの敷地に、4,200柱が眠るこの横浜山手外国人墓地の歴史は、1854年(嘉永7年)、アメリカ水兵の埋葬にはじまります。開国交渉のため訪れていたペリー提督がひきいる艦隊ミシシッピ号船上の事故で、1人の水兵が死亡し、当時は小さな漁村であった横浜を一望するこの丘にその亡骸が葬られました。以来この墓地は、人種、宗教にかかわりなく、日本で活躍した多くの外国人の安息の地となり、その国籍は40数ヶ国に及んでいます。地震、台風そして戦禍をまぬがれ、今日では横浜は言うに及ばず日本の文明開化以来の歴史をしのぶ重要な史蹟となっています。
過去130年、墓地は非公開とされてきましたが、1984年(昭和59年)に横浜外国人墓地管理委員会は、世論の関心の高まりに応え、定期公開にふみきることを決定しました。公開に先だち、擁壁や園路の整備、植栽など多くの修復工事が必要となりました。日本人、外国人を問わず、多くの人々の寄付や、横浜市と神奈川県からの補助金によって、この修復事業は可能となり、外国人墓地の歴史に新たな章が書き加えられました。私たち墓地管理委員会は、これらの人々のご厚意に心から感謝申しあげます。この墓地が、日本と諸外国との友情のシンボルとして、また近代日本の発展に多大な貢献をした人々を記念するものとして永遠にとどめおかれるよう、皆様のあたたかいご支援、ご協力をお願いいたします。
(以上、周知板より引用) |